しめしずと死生観〜”星に願いを”乗せて〜

皆さんこんにちは!

Summer Paradise2020 俺担推し推し自担ヨシヨシ緊急特別魂 TravisJapan公演が8/10に終演を迎えました。

というわけで、お盆にして私の夏も終焉を迎えてしまったわけです。……いや、別にうまくないな。。。

 

…ジャニヲタ赤ん坊な私には、「この曲はいつの時にもやっていた曲だ!」とか、「この曲は〇〇さんの曲で〜」なんて事は正直分からず、こういう時色々と造詣が深ければよかったな、とは思いましたが…。

まぁ、観れる公演は全て観たのですよ。

 

………いやぁ、……まぁ、良かったよね。

 

その公演全体の話は追々別記事でしたいと思います。余力があれば…。

だって、「推し澤じゃないよ〜」な閑也くん可愛かったもの、触れないでは居られようか?…いや、触れよう、となっているからです。(反語)

 

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…はい、話が逸れようとしてましたので、時を戻しましょう。(?)

 

まずは『星に願いを』に纏わるしめしずの状況を整理するところから。

 

それこそ話は遡ること、7/18に戻ります。

この日はしめまるの定期更新日です。

突如しめちゃんが、『星に願いを』のフレーズ「夜空を眺めてThinking about you」と共に、「18日だから」と沖縄仕様の閑也くんとの写真を上げてきたではありませんか…。

 

「え、何?!」と全てのしめしず厨はなったのではないでしょうか。

「何かあるぞ、匂わせられてるぞ…ざわ…ざわ…」と思っている間に、ソロコンは始まっていきます。

 

……まぁ、案の定来ましたよね、『星に願いを』が。

まぁ、ヲタクの語彙力でいけば「良良良!」って感じで、

正直しめパラ全公演観たけど、二公演目くらいまでは『星に願いを』ショックがでかすぎて、後半覚えてなかったのを記憶しています。

 

そんなこんなで閑也くんの『星に願いを』も3公演共観たわけですが、

「はー…感情追いつかん、無理…」となっていました。

後、改めて色んな意味で敗北感を味わされました、永遠負け続けたいけどな。

 

と情緒のない私の気持ちは置いておいて。

兎にも角にも夏も終わりを告げましたので、『星に願いを』を考察するブログを書くに至るわけです。

 

ここで、真面目な話に戻ります。

ここまで決してふざけていたわけではないですよ?

 

 

 

 

…え? あ、はい。

 

さて、皆さんは「生と死」をどのように捉えていらっしゃるでしょうか?(…え、急に重)

 

正直、今回私自身放心状態になってしまったのは、生命力溢れている二人の死生観に思いがけず触れてしまったから、より一層しんどさを感じたのではないか?と思いました。

 

以下、二人の演出やコメントを勝手に深読みしていきます。

あくまでもヲタクの虚妄&虚妄Paradise2020ですので、合わないな…と感じたらスルーして頂ければと思います。

 

 なんだかんだ言って、閑也くんの考察になるような気もしています…。

 

0.前提

①まず当然のようにしめちゃんを故人、閑也くんをその死を悼むパートナーとして話を進めていきます。便宜上です。

②そのため、まずしめちゃんは自分の死を受け入れる過程を、閑也くんはしめちゃんの死を受け入れる過程を表現しているのだと考えました。

③今回は、しめちゃんは「自身の死を受け入れられた人」、閑也くんを「愛する人の死を受け入れられなかった人」と仮定して話を進めていきます。

 

しめちゃんに至っては「受け入れた」も何も、死んでいるのだから「受け入れざるを得ない」という前提でもあるのですけどね。

 

ですので、まず、残された人の悲嘆のプロセスのお話をしようかと思います。

 

アルフォンス・デーケンの12の段階というものを引用させて頂きます。

こうしてみると、死を受容するということには、12も段階を踏まないといけない、つまりかなりのプロセスと時間を要することが容易に想定できます。

 

①精神的打撃と麻痺状態

②否認

③パニック

④怒りと不当感(不当な苦しみを負わされたという激しい怒り)

⑤敵意とルサンチマン(恨み、行き場のない怒りを他にぶつけること)

⑥罪意識

⑦空想形成、幻想(故人が生きているかのように思い込むこと)

⑧孤独感と抑うつ

⑨精神的混乱、アパシー(無関心、無感動、無感情)

⑩あきらめー受容(つらい現実を受け入れようとすること)

⑪新しい希望ーユーモアと笑いの再発見

⑫立ち直りの段階ー新しいアイデンティティの誕生(より成熟した人間として再出発する)

『考えよう!生と死のこと 基礎から学ぶ生命倫理と死生学』より引用

 

…と、急に真面目な話をしましたが、私も学生時代に取っていた『死生学』の講義資料をひっくり返して書いていますので、それくらいの知識だと思ってください。笑

 

ここで、私が伝えたいのは、閑也くんは正確に言えばまだ死を受け入れる途中段階なのではないか、ということです。

ですので、「死を受け入れられなかった」というよりも「死を受け入れるにはまだ早い人」というのが正確な表現でしょうか? 

 

それこそ、人の死の受け止め方の類型には「死の人称」というものもあるそうです。

これは、V.ジャンケレヴィッチの著『死』にて述べられています。

 

・一人称の死(自分が死ぬこと)

・二人称の死(身近な人、あなたが亡くなること)

・三人称の死(著名人の死)

 

この中で最も影響力が高く、長年に渡って苦しめられるものこそ、「二人称の死」だと言うのです。

 

つまり、身近な人の死だからこそ、苦しめられ、これからもまだその苦しみは続く可能性が高いのだろう、ということをこの記事では悲しいかな、書いていきたいと思いました。 

 

以下、そんなことも思いつつ私がこじつけた考察を書いていきます。

 

1.コメントの配置

たまたまである可能性も否めないのですが、二人ともこの曲を一つの起点(終結)として、コメント及びトークコーナーになるような構成の組み方をしています。

ですが、コメントを組み込む位置が相対しています。

 

・しめちゃん→曲の前

・閑也くん→曲の後

 

…まぁ、それだけと言われたらそこまでなのですけど。

 

ここからヲタクが深読みしたことは、

しめちゃんにとっては「自分の死はあくまでも通過点」であるということと、

閑也くんは「曲を終えても尚しめちゃんの死を消化できていないから、話してお道化るしかなかったのではないか」と。

 

 しめちゃんにとっては「あくまでも自分の死(この曲も)は物語の一部」で、

映画ならば、エンドロールが此処で流れるわけではなく、次のSweetなストーリーに向かわねばならない、という構成なのではないか、と思うのです。

一方閑也くん、特に三公演目が顕著ではありましたが、コメントで二人の思い出話をして「自分を慰めるしかできない」、そんな悲痛な印象を受けました。

 

2.コメントの内容

ここでは、しめちゃんの一公演目、閑也くんの三公演目のコメントを抜粋します。

 

〇しめちゃん

「メンバーの閑也と一緒に二人で振り付けとか、あと曲決めたりとか、あとは二人でその曲聞いて物語を作ってみたりとか。(中略)なんか見ている人たちも自分たちの中で物語を作って見てもらえるともっと楽しくなると思う」

 

…と、思い出を邂逅するように、でもあくまでも自分たちで作り上げた世界なので、空想の世界だと仮定して話をするしめ。

しめちゃんにとって、この世界はあくまでもパラレルワールドなのです。

 

反するように、

 

〇閑也くん

「しめがいなくなる演出にしちゃっ…したんですけど、本当にしめがいなくなったらどうしよう…って考えたり考えなかったりしましたね」

 

なんてちょっと語尾を上げたり惚けながら閑也くんは言っていましたが、

 

……いやいや確実に想像したな?!

 

おい、お前ら(急に乱暴な物言いになるな)

それまで「君を笑顔にしたい」みたいなメッセージで私たちファンに向けて曲を演じていた自担が、

唐突に別の人を想いながら相手がいない世界を想像して苦しむ姿を見せられたことがあるか?……俺はある。確実に負けた…と言っていました。

 

3.歌詞・演出

ここに関しては沢山の方が触れていると思うので、正直蛇足。

私の文章なんて、馬鹿みたいな焼き増し文でしょう。

 

二人を隔てるアクリル板。

分断されて、見えそうで見えない相手の位置。

アクリル板越しに触れそうで触れられない、そんな手の位置やタイミングがもどかしいとすら思います。

 

当たり前のように、二人が進む道は違うのです。

しめちゃんは次のステージに、次の物語に進むから、次第に上に登っていく。

一方閑也くんは、また楽しかった思い出とつらい現実の間に引き戻されるように階段を下っていく。

 

相手がいない不安や絶望・孤独の中で「此処にいてくれないだろうか」、そんなことを星に願う閑也くん。

正に、悲嘆のプロセスだと、相手がそこにいるように振る舞う⑦空想形成、幻想辺りに該当するのでは?と。

それでいて、「相手を幸せにできていたか」そんなことを悔やんで悔やんで悔やみきれない、そう地面に跪いて歌うのです。

それでも、自分はこれからも「永遠以上に愛し続ける」ことを誓い、相手の死を乗り越えて次に行かないよう、最早自分を縛り付けているようなそんな気がしています。

 

一方、しめちゃんは弱っている相手を包み込むように、まずは「相手からもらった言葉が嬉しかった」とそんな言葉から始めるのです。

でも、できることなら触れたいと手を伸ばしては、触れないことが分かって結局引っ込めてしまう。

それこそ、今の自分には叶わないことだから、と彼に差し込む月明かり代わりに相手を照らし、「自分は此処にいるから心配しないでほしい」と伝えたいのではないか、と思いました。

 けれど、そんな優しい彼が自分でよかったのだろうか?と自問自答にも入ってしまいます。

ただ、どんな日だってこれからも星として見守り続けるよ、と遺して去るのです。

 

最終的にはお互いを想いながら、お互いの”いない”世界、日常に戻る外ないのです。

 

4.総括として、二人の死生観

 私が思うに、閑也くんは「抱え込みがち」な人だと思っています。

だから、閑也くんにはしめちゃんみたいに意見を代弁してくれる人が必要で…。

 

………おっと、これはSHETHREEさんの記事を読んでください。

まず二人のビジュアルも最&高でしたが、インタビューも最&高でした。ありがとうございます

 

だからこそ、そんな唯一無二な存在の人が「自分の傍からいなくなったらどうなるだろう?」と考えながら彼は演出や振り付けを作ったんだろうな、と。

だから、思いがけず「気持ちが入っちゃった」と漏らしていました。

 

一方しめちゃんは、自分はこの世から姿を消す側だけれど、

これはあくまでも物語の一部で、悲しまず、楽しんで欲しい。

色んな解釈をして思い出として記憶の中に植え付けてほしい、と思っているような印象でした。

 

「残酷ささえもentertainment」ってこういうことでしょうか?…はい、違いますね。

↑当初公開した記事では、残虐、と誤字になってました、失礼致しました。

 

兎にも角にも、ヲタクが二人の関係性をとやかく言うのをきっとしめちゃんは嫌がるだろうから、この記事が炎上しないことだけを切に祈ります。

 

総評、しめしずは尊いはっきりわかんだね。